これはひどい

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この人確か学者でしたよね。いやまあその社会科学者を自然科学者の基準で斬っちゃいけないことぐらい分かってます(からおかしいと思う人はおかしいと思えばいいし、おかしくないと思う人はスルーすればいいと思います)が、社会科学の人はあれもこれもスルーしすぎ。*1

# yukihonda 『このコメント欄のこの部分に、上記の宣言に対して否定的なニュアンスを含むコメントが書かれました。その是非がどうであれ、私は産声を上げたばかりのこのユニオンに対して何らかのマイナスの影響をもちうるような文章が自分のブログに書かれ多くの人の目に触れうる状態で放置することは、このユニオンに迷惑をかけたくないと言う意味からも、認容できません。ですから、コメントを書かれた方には申し訳ありませんが、私の一存でコメントを消去しました。』
# yukihonda 『削除してもよいと付記してその後書き込んでくださったコメントは、お申し出の通り削除させていただきます。私はこのような運動の萌芽を摘み取るべきではないとあくまで考えています。』
# yukihonda 『ao2さん、もうきっかけを覚えていないほど私にとっては自明な見方です。waka moanaさん、sirouto2さん、このようなユニオンを始めるに際しての「命がけの飛躍」について想像力を働かせ、それに対して敬意を払っていただきたいと思います。野次馬が高みの見物でどうこう言う類の行為は慎むべきです。』
ちなみに削除されたコメントは見ていません。

まあどうでも良い個人的体験

大学の非常勤講師組合のサイト(アドレスは忘れました(見付けたら貼ります))に事例を交えた痛切な訴えがありましたが、現在まで状況は変わっていないというかむしろ悪くなってませんか。私の知ってるごくごく限られた範囲だと、教員が定年になっても非常勤講師を続け、定年前後で担当コマ数が変わらず、その上後任を補充しないという事例がちらほら。
勿論彼らも非正規雇用者です。

ひょっとして

彼らが常勤になれないのは「人間力」とやらのせいですか。まさか。
私がオフラインで知ってる若い文系の大学教員は対人コミュニケーション能力に問題はありませんでした。そもそも私がオフラインで知ってる若い文系の大学教員自体がレアキャラではありますが。

事務処理能力

bewaad先生におおや先生をつけてあげるからその席を空けろと問いつめたい。小一時間問いつめたい。
そういえば、事務担当の大学教員って最近見かけませんよね(昔もたくさんいたわけではありませんが)。天下り教員ってまず事務が比較優位(そりゃ専門職(技術職、研究職)出身なら専門が比較優位ということも多いでしょうが)なんですから、それに専念させるのがベストでしょう。

参考

ブックマークコメント

IR-Watcher 米欄での有意義な議論を「宣言の趣旨に異議を唱える」というだけの理由で消去するのは理解に苦しむ。結局本田氏の器量はその程度か。立場を超えた支持を得ようとせず、小さな世界に引きこもりたければそうするがよい

(本人は自覚していないでしょうが)狙ってるのは大きくも小さくもない世界だと思いますが、そこから先は火あぶりへの道でしょうね。

前科

ちなみに、匿名メール転載という前科があります。

追加


# のびた 『■高校数学の教科書で紹介されているユークリッドの逸話の引用。

彼のもとで幾何学を学び始めた人が、原論の命題1「一辺を与えて正三角形をつくること」を習ったとき「これを学んだことによって、私にどんな得があるのでしょうか」と聞いた。ユークリッドは召使いをよんで、「彼にお金をやりなさい。彼は、学んだことから利益を得なければならないのだから」と言った。

この話を諸君はどう受けとめるであろうか。正三角形の作図を初めて学んだとき、この人のように考えるのは当然かもしれない。しかし、この逸話が伝えようとしている幾何学の精神を理解し、その上で、この章の勉強を始めていただきたい。

と高校数学の教科書には書かれているのですが、このようなユークリッド的な学問に対する姿勢がある程度理に適ったものであるとすれば、「大学の学習でどんな能力・スキルを身につければ、社会でどのように役に立つのかを、きっちりと学生に示せるか。」「学んだ内容がそれらの将来にいかなる形で直接・間接に関連しうるのかを強く意識した教育」というような考えにも問題があるように思うのですが、如何でしょうか?』
# yukihonda 『数学を学ぶ高校生たちのすべてに対して、こうした「幾何学の精神」「学問に対する姿勢」を要請するのは酷だと思います。』


# のびた 『しかし、釈迦に説法ですが、東大の市川伸一先生の本などでは、外から与えられる報酬の手段としてでなく、ある活動をする事自体を自己目的的に求める欲求=「内発的動機付け」(知的好奇心など)は、外から報酬を与えられると、却ってその動機付けが下がってしまう事が指摘されています。
教育心理学では、内発的動機付けの大切さ、外発的報酬の危険が強調されているとの事です。
もちろん、教育心理学は、外発的な動機付けを否定しているわけではないようですが、実用指向もいき過ぎると内発的な動機付けに悪影響を与える事もあるかと思うのですが・・・』
# yukihonda 『市川伸一さんの『学力低下論争』(ちくま新書、2002年)には以下のような記述があります。 教育心理学では従来、外発的動機づけ・内発的動機づけという枠組みの中で、外からの賞罰による統制と、知的好奇心や向上心を重視する考え方との間で教育論が戦わされてきた。しかし、現在の子どもたちは、そのどちらでも学習に向かっていきにくいという悩みがある。大人からの賞賛・叱責、経済的報酬、学歴などを学習に伴わせても効果は少ない。要するに、それほど「困っていない」状況なのである。また、いくら「楽しい」、「おもしろい」授業を工夫しても、世の中にはほかにも楽しく、チャレンジングなことがたくさんあり、学校での学習内容に興味を向けてくれない。 そこで、学ぶことの意義をあらためて捉え直すために、「開かれた学び」というのが重要なコンセプトになっていると思われる。「開かれた」とは何に対して開かれているのかというと、1)学校時代の学習に閉じることなく、自分の将来に対して開かれていること2)教科学習に閉じることなく、より広い知的活動に対して開かれていること3)学校という場所に閉じることなく、地域や実社会に開かれていることということになる。 学びを開くことによって、子どもにとって、学ぶことは「ひとごと」ではなく、「なりたい自己」と「なれる自己」を広げるという文脈に位置づけることができる。(中略) 教師や親をはじめとする大人たちの役割は、社会の動きを見据えた上で、「なりたい自己」や「なれる自己」をどう広げてほしいかを熟慮して提示し、その広がりを支援することであるといえよう。(237-239頁)ここで市川伸一さんが言われている「開かれた学び」はむしろ私の考える「教育のレリバンス」に合致しています。よく言われる「外発的動機付け」とは、知識の内容自体の意味・意義・レリバンスは問わずに、「これはテストに出るから覚えておけ」と、知識に関係ない別の報酬で学習に向かわせようとするものだと思います。私が言う「レリバンス」とは、知識の中身そのものの、生活や仕事との関連性なので、「外発的動機付け」とは異なるはずです。』

# yukihonda 『どうでもいいって言うな!改め言っちゃイヤ!』
# fhvbwx 『>どうでもいいじゃあ日本の社会学者はアカウンタビリティをはたしてないですねということでも良いですよ。』
「罪のないものから石を投げよ」というか人の責任を追及する前にまず自分の責任を果たすというのが世の常識だと思っていたんですが。
大学で社会学を学ぶと、どんな能力・スキルを身について、社会でどのように役に立つのかを世の社会学徒は学生にきちんと明示しているんでしょうか。*2

*1:知名度の問題は考えられますがこれだけはてなアンテナに登録されているわけで

*2:明示してたらごめんなさい