琉球柳生

昨今の柳生研究家には海外に広まった柳生にのみ注目し、国内の柳生を忘れる輩が多いことは全く嘆かわしいことでございます。若輩者ではございますが、琉球柳生について紹介致したいと思います。

琉球柳生とは

広く一般に膾炙されている琉球柳生像とは南国の暖かな気候の元、高い平均寿命を誇るご老人がその生涯を剣に捧げている光景であろう。

さにあらず。琉球柳生は脅威の柳生である。

その恐ろしさは、彼らの民族性にある。

一般に、「無刀取り」は柳生の奥義とされ、ギリシャ柳生において活人拳としての完成を見た、無刀の技の数々をスコットランド人は先天的に体得したが、琉球柳生の使い手はその生活の中で自然と習得したといえば、その恐ろしさがわかるだろうか。

琉球柳生の理念は複雑であるが、具体的な例を紹介しよう。(ただし、標準語に直した)

  1. そんななまくらで俺を切れると思ってるわけ
  2. 俺の刀は名刀だぜ
  3. そこまでいうなら交換しても良いよ

その詐術の巧みさは歴戦の柳生剣士をしてつい「交換してください」と自ら刀を差し出させるほどであり、己の武器でそのまま切り倒される柳生が後を絶たない有様である。
ならば、無手の技なら琉球柳生に勝てるのか。そうではない。そうではないのである。
なにしろ、琉球は空手発祥の地である。


古来、琉球には「手(ティー)」と呼ばれる格闘技法が存在したと言われる。この「手」と呼ばれるものは諸説あり、古来、海洋貿易が盛んに行われていた琉球の特性から、東南アジア地域の武術が伝わった可能性があるとし、現存する東南アジアの武術に多くの近似点が見られることから関連性があるとされている。一方そこに中国拳法が1300年代後期に伝わり融合して生まれたのが唐手(カラテ、もしくはトウテイ)で、これは文字どおり中国の「手」格闘技法であることを意味する。
琉球柳生の伝来は2つの説が有力で、一方は1500年代の尚真王時代の「禁武政策」による武器の使用・武術の禁止に伴い、本土から伝わった新陰流が規制から隠れての無手の技として発展したという説である。
もう一方は、薩摩藩による1609年の琉球侵攻の際、柳生但馬守の命を受けて従軍した江戸柳生の高弟が柳生新陰流を伝えたという説である。その後、薩摩藩によって武器を禁じられた琉球の人々は、刀や槍を使用せずに自らの五体や農具・漁具を武器として戦う技法を発達させることとなったという。
他にも、清国との貿易を通しての清国柳生の影響を指摘する声もある。また、琉球士族の間で薩摩藩から伝わった示現流剣術が盛んであったことから、琉球柳生の一撃必殺を追求する理念は、示現流の影響とする説もある。
その後、琉球処分まで日中両属という体制の元、嘘を突き続けることを強要された琉球柳生の剣士達は剣の道だけでなく、無手の技と嘘の道にもたけていく。

渡久地東亜不敗斎
琉球柳生の使い手。400勝無敗。天才的な勝負師。武器は自由に回転数を変えられるMAX130キロのストレートと悪魔的駆け引きの妙。投手と打者の一対一の賭博「ONE OUTS」で不敗を誇る投手。後に、ワンアウトで500万受け取り、一失点で5000万円支払うというワンナウツ契約でプロ野球入りする。