合理的正義と直感的正義

とりあえず、この二つの違いが日本では理解されていないことだけを指摘しておきたい。
直感的正義という概念は理解しやすいでしょう。いわゆるヒーロー物で描かれる正義です。みなさんご存知ですね。
合理的正義という概念には首を傾げる方も多いかもしれません。当然です。さっき作った言葉です。定義としては合理的考察を元に幸福(功利主義的観点からこの言葉を採用しましたが、経済学が好きな人は効用とでも読み替えてください)を最大にするために(自分や他者の幸せを犠牲にしても)ベストの手段を執ることが合理的正義です。差別とか格差とかが嫌いなのは脊髄反射しないように。ここで、注意すべきなのは犠牲になる一部の人間の不幸せが全体の不幸せにならないように幸福の関数を(合理的な範囲内で)書き換えられるってことですね。当然、どういう幸福関数を採用するかによって正義は変わってきます。まあ、幸福なんて物が人の主観である以上は仕方のないことです。
この両者の分かりやすい例は例の国債残高問題ですね。合理的に判断すれば国債残高を無理に減らそうとしない方が(現在の世代も未来の世代も)幸せになれるのにどちらかに不当な重み付けをしてしまうんですよね。というか、どちらも幸せにしてないのに正義と呼ぶのはナンセンスな気もしますが。まとめるのが面倒なので徳保さんのところから持ってきます。

id:fromdusktildawnさん
小飼弾さん
bewaadさん
id:koiti_yanoさん
id:arnさん
徳保さん

結論

以上のように合理的正義と直感的正義について様々なアプローチから考察してみたが、解決の糸口は見えない。僕らは正義を探しているのだろうか。それとも…哀しい愛の亡霊を探しているのだろうか…寝られない夜がまたやってくる。駆け抜けてみるか今夜!

蛇足

日本では合理的正義と直感的正義が一緒くたにされるどころか合理的正義が悪と見なされることもあります。