日本語で上手な伝奇小説を書くには

参考
やや唐突ですが、私の友人のイタリア系アメリカ人から面白いメールをもらったので、本人了解のもと転載します。原文は英語ですが適当に訳してみました。事実誤認など突っ込みどころ満載なんですがあまりに面白いのでそのままにしてあります。

私から見ると皮肉が利きすぎているように思うのですけど、本人はいたって大真面目のようです(笑)。どっかに載せるつもりなんだろうか。止めといた方がいいと思うけどなあ。わはは。

アダム・トリチェリー(鶏林大学校講師)

1. 何について述べている伝奇小説なのかは最後まで明らかにしてはいけない
日本では、なにを元ネタとしているのか、なにがテーマなのかが最後までわからない伝奇小説が良いとされている。冒頭で目的を述べるなどはもってのほかだ。
具体的には、「一度テーマらしきものを述べた後、すぐにそれを肯定して肯定して肯定しまくって、愛を憎悪に変える」といった手法が挙げられる。荒山徹が非常に多用するレトリックだ。

2. わかりやすい伝奇小説を書いてはいけない
通常の小説構成である、起、承、転、結、という四部構成は、日本ではあまりに型にはまりすぎており面白みのないものとされている。

脱線や省略が多く、一行先になにが起きるか分からない、読者それぞれに異なる印象を残す伝奇小説が「良い伝奇小説」なのだ。

3. 結末を冒頭に述べてもよい
ネタを冒頭でほのかめすことは、日本では良いこととされている。仕掛けに気付いた読者が今まさに騙されているという感覚を味わうという楽しみがあるからだ。

4. 結末を最後に述べてはいけない
皆さんは驚かれるかもしれないが、素晴らしい伝奇小説とされるためには、結末は最後に述べてはいけないのだ。
それでは結末はどこに、と思われるだろうが、とにかくはっきりとした結末は文章のどの場所であっても明確に述べてはならない。日本では、結末を明確に述べるのは文章の余韻を殺す、ぶしつけなものとされているのだ。

代わりに、まるで和歌のように、結論は読者が他の作品を「読む」ことで見つけるものとされている。当然作品の時空により「結末」は異なるわけだが、荒山徹についてはそのような解釈の多様性の存在――曖昧さとも言うが――が良いとされているのだ。
これは非常に高度なテクニックであるため、身に着けるには長期に渡る修練が必要となるだろう。正直今の私にはとてもこのような文章は書くことはできない。

5. ひとつひとつの妖術はできるだけ説明になっていない説明をしなければいけない

日本では、どんなに無茶苦茶な妖術でも原理を説明するべきとされている。一生懸命説明をしているのに全く説明になっていない妖術が、味わい深い良い妖術なのだ。
同様に、忍法や剣の技も全く説明になっていない説明を一生懸命することが好ましいとされている。

6. 主張は断言しなくてはいけない

どんなに根拠のない主張であっても、そう書いてはいけない。「・・・謬説である。」「・・・恥というものを知らぬ後人の捏造である」など、自信たっぷりに断言するのが荒山作品の特徴だ。
また、できることなら、自分が主張しているだけではなく、誰かもそう言っている、と述べる方が良い。「黄算哲」などの架空の人物を用いるのもよい。この場合、著者が「黄算哲」であるのは暗黙の了解とされる。
達人ともなると、実在の出典と架空の出典を区別することができないような文章を書くものだ。感服せざるを得ない。

7. 主張の根拠を明示しなくてはいけない
ただし、根拠が実在するかどうかはたいした問題ではない。
荒山徹ともなると、出典自体が実在するかどうかがあやしくなってくる文章を書くものだ。感服せざるを得ない。
8. 客観的な記述は控えなくてはならない
ただし、主観的な記述は客観的な記述であるかのように装うことが好ましいとされる。
9. 偉大な先達をファックしなくてはいけない
荒山徹にとっては、偉大な先達をファックすることは、もっともしなくてはいけないこととされている。どんなに偉大な偉大な先達を愛していても、全人格的な侮辱としてとらえられるからだ。
従って、他人が書いたものを批評するときは、徹底的に行わなくてはならない。例えば、「生首」などが多用される。

10.他人の主張を批評する必要がある場合は、主張そのものではなく、その人の生い立ちや人となりについて述べ、作品に登場させなくてはならない
信じがたいことだが、荒山徹は、他人の主張そのものについての批評だけでなく、その人の人格に関する論評も大いに行っている。

追記

ほってんとリスト入りしました。
しかし、日本語で上手な伝奇小説を書くにはというよりも日本語で上手な荒山パロディーを書くにはですな。