日本で有名なブログを書くには

やや唐突ですが、私の友人の韓国系アメリカ人から面白いメールをもらったので、本人了解のもと転載します。原文は英語ですが適当に訳してみました。事実誤認((韓国系アメリカ人というあたりとか))など突っ込みどころ満載なんですがあまりに面白いのでそのままにしてあります。

私から見ると皮肉が利きすぎているように思うのですけど、本人はいたって大真面目のようです(笑)。どっかに載せるつもりなんだろうか。止めといた方がいいと思うけどなあ。わはは。

ゼルダ・ホアン(東京物理大学講師)

私たちには日本の公立学校に通う小学5年生の娘がいる。彼女は小学生になる前から日本で暮らしているため日本語には不自由していないのだが、どうしても良い評価がもらえないものがあるようだ。ブログだ。

日本のネットコミュニティーにははてなというものがあり、私にはブログにしか見えないが、日記であることになっているらしい*1。どうやら私の娘は今年もまたアクセスを集められなかったようだ。

私たち夫婦はアメリカで教育を受けており、娘にはどのように文章を構成するかについて一通り教育をしてきたつもりだ。しかしことここに至って、私たちは根本的に何かが間違っているように思えてきたのだ。

そこで、娘から伝え聞いたアルファブロガーの評価や、日本でいわゆる「人気の記事」といわれているブログの文章を調査した結果、少なくとも日米では「人気の記事」といわれているものに大きな違いがあることがわかってきた。

以下はその違いをもとに私なりにまとめた、日本で著名なブログを運営するための「べからず(Don'ts)」リストだ。私たちと同様にアメリカで教育を受けた皆さんには信じられない内容だろうが、日本ではこのような特徴を持った文章が――小学生のブログに限らず、新聞記者のブログでも――良いとされているのだ。何かの参考になれば幸いだ(娘のブログのアクセス数向上とか)。

ところで、私の目下の悩みは、こうした特徴を持った日本的「人気の記事」を書くよう、娘を指導するかどうかというものだ。何しろ私自身、このようなエントリーを書くことについてはとても自信があるとはいえない。こうして今書いている文章ですら、自分で挙げた「べからず」をひとつとして守っていないのだから・・・。

日本で有名なブログを書くには:12の「べからず」

1. 何について述べている文章なのかは最後まで明らかにしてはいけない

日本では、何を問題としているのか、何がテーマなのかが最後までわからないエントリーが良いとされている。冒頭で目的を述べるなどはもってのほかだ。

具体的には、「一度テーマらしきものをリンクした後、すぐにそれを否定し、代わりのテーマは最後まで明らかにしない」といった手法が挙げられる。日本では非常に多用されるレトリックだ。

2. わかりやすい構成の文章を書いてはいけない

通常の文章構成である、イントロダクション、主題、結論、という三部構成は、日本ではあまりに型にはまりすぎており面白みのないものとされている。

曖昧模糊として脱線、反復や省略が多く、読者それぞれに異なる印象を残す文章が「良いエントリー」なのだ。

3. 結論を冒頭に述べてはいけない

我々にとっては一般的である、結論を冒頭で述べることは、日本では「味気ない」ものとされている。読者の楽しみを奪ってしまうためだ。

4. 結論を最後に述べてもいけない

皆さんは驚かれるかもしれないが、日本語の良い文章とされるためには、結論は最後に述べてもいけないのだ。

それでは結論はどこに、と思われるだろうが、とにかく結論らしきものはエントリーのどの場所であっても明確に述べてはならない。日本では、結論を明確に述べるのはエントリーの余韻を殺す、ぶしつけなものとされているのだ。

代わりに、まるで俳句のように、結論は読者が行間――文脈(context)とやや似た概念だがより幅が広い――を「読む」ことで見つけるものとされている。当然読者により「結論」は異なるわけだが、日本ではそのような解釈の多様性の存在――曖昧さとも言うが――が良いとされているのだ。

ときには、俳句そのものを結論にするものまで存在する。

これは非常に高度なテクニックであるため、身に着けるには長期に渡る修練が必要となるだろう。正直今の私にはとてもこのような文章は書くことはできない。

ただ、手っ取り早くそれらしい文章を書くには、「べからず1」と同様に、「一度結論らしきものを述べた後、すぐにそれを否定し、しかし代わりのアイデアは述べない」という手法が使えるだろう。

5. ひとつひとつの文章はできるだけ長く曖昧なものとしなければいけない

日本では、接続詞を多用し、ひとつの文章をできる限り長くするべきとされている。途中で主語や述べている対象が変わったり、文の最初と最後で正反対の主張をしているように見えるエントリーが、味わい深い良いエントリーなのだ(何度読んでもなにを言っているのか分からないエントリーはもっと良い)。

同様に、パラグラフもなるべく改行をせずに、話題が変わってもそのまま続けて長く書くことが望ましい。

6. 主張は断言せず、曖昧に述べなくてはいけない

どんなに根拠のある主張であっても、それを明確に言い切ってはいけない。「……と思う」「……ではないか」「……そうだ」など、自信無げに述べるのがつつましく奥ゆかしい名文の条件だ。

また、できることなら、自分が主張しているのではなく、誰かがそう言っている、と述べる方が良い。特定の誰かでも良いが、「大衆」などの曖昧な主語を用いるのがより望ましい。この場合、著者は「大衆」には含まれないのは暗黙の了解とされる。

達人ともなると、誰がそのような主張をしているのか、まったく特定することができないような文章を書くものだ。感服せざるを得ない。

7. 主張の根拠を明示してはいけない

我々はひとつの主張につき最低三つはサポートとなる議論を用意するべき、と教えられるものだが、日本ではこうした形式をとってはいけない。引用は許されるが、ソースは明示してはならない。

8. 客観的な記述は控えなくてはならない

何かの理由を述べるときは、なるべく主観的に、自分自身の印象、感情や経験に基いて述べるべきだ。誰かがそういっていた、という伝聞や、昔読んだ新聞記事などに基くのも好ましく、事実、多用されている(ただしソースは明記してはならない)。

客観的な事実を具体的な事例やデータと共に挙げることは間違ってもしてはならない。押し付けがましくなり、文章の品格がなくなるからだ。

代わりにEXCELで作った読みにくいグラフや表を貼ることは好ましいとされている。

9. 他人の主張を批評してはいけない

日本では、誰かが書いたものを批評することは、もっともしてはいけないこととされている。どんなに冷静な批評であっても、全人格的な侮辱としてとらえられるからだ。

更に、我々には信じがたいことだが、ある人の主張を批判的に検討することすら、その人への侮辱であると考えられている。日本では、誰かの主張を特定し具体的な批評を行うことは、非常に品性のない行為とされているのだ。

従って、他人が書いたものを批評するときは、曖昧に行わなくてはならない。例えば、「ネタ」とか「ホゲ」とか「スパゲ」などが多用される。ここでも、一度自分で書いたことをすぐに否定する、というレトリックが多用される。また、「うまく言えないのだが……」「言葉にならないのだが……」「それを書いてしまうのはタブーなのだが……」などを用いて、自らに非があるように見せかけるのも良いだろう。

私見だが、これは曖昧な結論の多様な可能性の中からひとつだけを取り出して批評するという行為が好ましくないとされていることに起因しているように思える。文章とはすなわちその人の作品であるから、読者はそれを部分に切り刻まずに、多様な結論の可能性をそのまま受け入れるべきなのだ。

10.数式や専門用語を使ってはならない
英語では数式を中置記法で読むのに対して、日本語では数式を中置記法と後置記法のどちらを用いて記述しても良い。そのためなのか、数式をそのまま書くことは許されず、二つの量の関係を示すのにただ単に増えるなどの曖昧な表現を使わなければならない。代表的なブログサービスであるはてなでは数式をLaTeXの記法を用いて表示する機能があるが、この機能の利用者は多くない。一説によると、演算子の数に逆比例して読者の数が減るそうである。
また、例えばこの逆比例という単語の意味すら理解していない人間が多数存在することは我々よりも高度な初等中等教育*2を国民のほぼ全てが受けているこの国についての大きな謎の一つである。専門用語を適切に使う専門家は専門バカとして馬鹿にされ、専門用語の誤用を行う素人が大いに賞賛されている。また、読者も自分の知らない用語を調べようともしない。専門用語は辞書や専門書やGoogleを調べずに不適切に使用しなくてはならないのだ。

11.加害者としても被害者としても意見を言ってはならない
加害者として発言することは大変危険なことである。一方的に決めつけてコメントするものが多数現れるという現象が頻繁に現れる。この現象のことを日本では炎上と呼ぶ。対応を誤ると祭りと呼ばれる現象が発生し、加害者の人生に甚大な社会的制裁が与えられる。
しかし、被害者として主張することも同様に大変危険なことである。あなたの主張を理解しようともしないで炎上するという現象が頻繁に現れる。対応を誤るとやはり祭りが発生し、被害者の人生に甚大な社会的ダメージが与えられる。日本では自らに与えられた過酷な運命を嘆くことしかできないのだ。

12. どうしても他人の主張を批評する必要がある場合は、主張そのものではなく、その人の生い立ちや人となりについて述べなくてはならない
これも我々には信じがたいことだが、日本では、他人の主張そのものについての批評は避けられているが、その人の人格に関する論評は大いに行われている。

つまり、ある主張について具体的に検討したい場合は、主張そのものやそれをサポートする根拠を扱うのではなく、著者の生まれや育ち、人となり、国籍や人種、現在生活している国、支持している政党や属している宗派、過去の経歴、または思想信条を問題としなければならないのだ。

残念ながら、この理由についてだけは、私には今回の調査では皆目見当がつかなかった。娘が欲しがっているゲームソフト*3のためにも、今後も継続して日本的ブログの秘密に迫っていくつもりだ。

*1:不思議なことに彼らはどう見てもブログにしか見えないこのサービスのことを日記と呼んでいる。日記とは毎日書く物ではないのか?

*2:これでもゆとり教育という名の下に内容を大幅に削減したそうである

*3:日本のamazonで最も売れているソフトの一つであるスーパー伝奇大戦